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牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)〔高市郡明日香村大字越〕
 

 牽牛子塚古墳は明日香(あすか)村大字越(こし)に所在し、近鉄吉野線飛鳥駅から西へ徒歩10分の場所にある。対辺長が約22m、高さが4.5m以上の八角墳で、墳丘裾には凝灰岩(ぎょうかいがん)の切石による石敷きが廻り、墳丘の西側では礫敷きが確認されている。埋葬施設には、巨大な凝灰岩を刳り抜いて2つの墓室を造った横口式(よこぐちしき)石槨(せっかく)が設置されており、4か所に飾金具が取り付いていたと思われる板石を内側の閉塞(へいそく)石とし、その外側にも縦約245㎝、横約270㎝の閉塞石を置いて二重に閉じられていた。各墓室には棺台がしつらえてあり、その規模は東槨が長さ195.5㎝×幅81.5㎝、西槨が長さ195.0㎝×幅80.0㎝とほぼ同じ大きさで、いずれも成人の棺にあわせた規模になっている。石槨内からは夾紵(きょうちょ)棺や七宝(しっぽう)亀甲(きっこう)形棺座(かんざ)金具、金銅製八花文座金具、多くのガラス玉などとともに人骨も出土している。残存した歯牙の分析によると、被葬者の一人は30~40歳で、積極的に性別を判断することは困難ながら、その計測値は女性の平均値に近いと報告されている。また、近年、牽牛子塚古墳の東南で新たに横口式石槨(越塚御門(こしつかごもん)古墳)が確認されている。
 牽牛子塚古墳は天皇陵に採用される八角墳であり、埋葬施設は一石を刳り抜いて2つの墓室を造った横口式石槨で、築造当初から合葬を意図したものであること、そして「小市(=越智)」にあたる越に位置するといった状況などから、『日本書紀』天智6年(667)2月戊午〔27日〕条に、斉明天皇と間人(はしひと)皇女を合葬した小市岡上陵(おちのおかのうえのみささぎ)の前に大田(おおた)皇女を葬ったとある記事との関連が注目されている。
 牽牛子塚古墳の発掘調査は大正時代から行われており、大正12年(1923)には史跡に指定され、平成26年(2014)には越塚御門古墳も追加指定されて史跡名が「牽牛子塚古墳・越塚御門古墳」と名称変更されている。また、大正3年(1914)の調査で出土した遺物は国の重要文化財に指定されており、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館で常設展示している。

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